皆さん、こんにちは。
いつも「軍師見習いのつぶやき」を読んでくださり、ありがとうございます!
今日の東京は、日中の天気は良かったですが、風が強くて寒かったです。
皆さん、楽しく過ごされてますか?
久しぶりの更新になってしまいました。
今日は、自宅から車で10分ほどのところにある菩提寺で、義父の17回忌の法要を行って来ました。
参列者は、義母、私たち夫婦、うちの子どもの4人です。
昭和1桁生まれの義父は、16年前に72歳で亡くなりました。
義父を一言で形容するなら「本当の意味で優しさに溢れた人」です。
義母や私の妻に対してはもちろんですが、私にも私の子どもにも、そして周囲の他の人達にも、とにかく優しかった。
義父は、私が妻と結婚したとき、私をどのように呼んだら良いかと思案し、義母と妻に相談したそうです。
義母は、「お父さんは、男だし、年上なんだから名前を呼び捨てで良いんだよ!」と主張したらしいのですが、義父は妻の微妙な表情を読み取りつつ、自分の考えも踏まえて呼び方を決めたそうです。
義父は、私の下名前をもじって「まあくん」と呼んでくれました。
以後、その呼び方は、亡くなるまで変わることはありませんでした。
その話を妻から聞いて、私はとても嬉しかったです。
父親のいない私にとって、人生で初めて接した「父親の優しさ」でした。
義父は、学校を卒業後、自宅から比較的近くにある病院に住み込みで就職したそうです。
運転免許を持っていない院長の運転手です。
院長は、義父の人柄と一生懸命働く姿を気に入り、よく出先で食事をご馳走してくれ、大変良くしてくれたそうです。
ところが、院長が高齢により引退し、院長の息子が院長を引き継ぐ段になり、問題が発生しました。
院長の息子は運転免許を持ったいるため、運転手は不要になってしまったのです。
義父はバスの運転免許も持っていましたので、院長一家に迷惑はかけたくないと考え、バスの運転手への転職を決意していました。
しかし、院長から意外な提案が。
「あなたは、とってもよく働いてくれている。家族同然だ。だから、こんなことで、あなたを辞めさせる訳にはいかない。
慣れない仕事で申し訳ないが、病院の食事を作る調理員として引き続き働いてもらいたい。」
義父は悩んだそうです。
「俺は料理なんて作ったことない。体力が無い俺に勤まるだろうか?」
義父は幼い時に患った病気が原因で、あまり身体が丈夫な方ではありませんでした。調理員は、休みが不規則で早朝からの勤務もありました。
そのうえ、当時のその病院の調理場では、薄い調理服に、素足で下駄、というスタイルで働くことになっており、体力に自信がなく風邪を引きやすい義父には過酷な職場でした。
それでも、院長の思いを受け止め、感謝し、そして家族を守るために、その病院の調理員として働き始めました。
調理の技能も知識もゼロからのスタートでしたが、コツコツと地道に働き、調理師の資格も取り、調理場になくてはならない存在になっていったそうです。
そして、定年まで無事に勤め上げ、3年間の再雇用を経て退職しました。
私も義父の料理を何度もご馳走になりました。とても美味しかった!
カツ丼、親子丼、カレー、餃子…どれも美味しかった!
中でも印象に残っているのが酢豚です。
酢豚があまり好きでなかった私を、一発で酢豚好きに変えた義父の酢豚。
シチュー仕立ての独特のあの酢豚。もう食べられないのが残念です。
私が美味しそうに酢豚を頬張る姿を、偉ぶるでもなく、ただただ嬉しそうにニコニコしながら義父は見ていたそうです。
義父と過ごした時間は、8年弱しかありませんが、まだまだ良い思い出がたくさんあります。
17回忌を迎えて、あらためて義父のことを思い返し、つらつらと思いのままに書いてしまいました。
徹底的に優しくいるためには強くなければできない。義父は優しいだけなく「強い男」でもあったんだなあと、あらためて敬意を表しています。
そして、自分もそうありたいと、密かに目標にしています!
今回も読んでくださり、ありがとうございます!